今、私たちが住むこの美しい富士見町の風景は、地元の方々が代々守ってきたもの。それぞれの地区には特別な思い出があり、未来に向けたヒントがたくさんあります。インタビューとふるさとの風景を通して、富士見町にある39の区の魅力を少しずつお届けします。
上蔦木区
- 人口:
- 217人
- 面積:
- 2,310,017㎡
- 宝:
- 十五社、蔦木分教場、宿場町
- 集落の成り立ち(富士見町史から抜粋):
- 上蔦木村は甲州街道に沿った村である。この集落は、江戸から43番目の宿場である蔦木宿を中心に展開した。蔦木宿は、慶長15年(1610年)、甲州街道が甲府から下諏訪まで伸ばされた際に、茅野や御射山神戸とともに取り立てられた宿場町である。蔦木の名は、蔦木宿が成立する以前からこの一帯を指す言葉として存在した。例えば嘉禎3年(1237年)の奥書をもつ「祝詞段」には「蔦木ニ十五社」とあり「神使御頭之日記」の享禄元年(1528年)のころには、「八月二十二日に武田信虎堺へ出張り候て、蘿木(つたき)の郷の内、小東の新五郎屋敷を城に取り立て候」とある。この新五郎屋敷は先達(小東)城のことであり、「境筋村々の儀は蔦木一円の地」と表現したように、境筋のこの一帯が蔦木郷の領域として考えられていたものと思われる。
上蔦木区航空写真(上蔦木区誌より抜粋) - インタビュー:
- 小林ゆきさん(83歳)、今井良美さん(82歳)、窪田トキ子さん(81歳)、今井千敏さん(70歳)、今井なぎさん(66歳)
※インタビューを実施した2023年10月時点の年齢
みなさんが子どもの頃と今では、上蔦木の様子は変わりましたか?
ゆきさん「昔は情緒があったよ。道が舗装になっていない頃はね、並木があって。柿の木や梅の木なんかがね。」
良美さん「ただ植えてあるだけじゃなくて、ちゃんと間隔を均等に取って。」
千敏さん「ずっと街道沿いに植わってたんだけど、舗装するときに広げるっていうんで切っちゃった。」
良美さん「もったいなかったなあ。残したかったよね。」
甲州街道の梅・柿並木(上蔦木句誌より抜粋))
昔は甲州街道が主要な道路だったんですよね?
ゆきさん「そうそう。今、国道がある道が生活の場だったのよ。」
なぎさん「鉄道通すっていう話があったけど、大反対して(線路が)上に行ったら、こっちがさびれちゃった、っていう話も聞いたけど。」
トキ子さん「鉄道通せば栄えたのにね。」
ゆきさん「私もみんな反対したって聞いたよ。」
トキ子さん「国道が通ったばかりの頃は、高速がなかったから車が沢山通って、大勢亡くなったって聞いたよ。」
千敏さん「60年とかそのくらい前は交通事故が多かった、直線だし。それもあって、国道沿いに人が住んでいたのを、一本裏に入った道に人が住みはじめた。」
ゆきさん「昔は店いっぱいあったよ。よろずやみたいな今井店2軒、豆腐屋も2軒、酒屋さん、駄菓子屋さん、洋服屋さんもあったし。お豆腐屋さんが美味しくてね〜。」
トキ子さん「ちょっとかためで美味しくてね。」
千敏さん「高級品はあれだけど、日常生活はもうこの中でまかなえたんだよね。農協もあったし。」
ゆきさん「昔は十五社は農協のところにあったのを、こっちに移したの。」
ゆきさん「私たち小さい頃は賑やかで、交流があって、良かったよ。情緒があったよね。」
良美さん「いや本当これ、町中でこういう話したいね。」
当時中心地にあった道祖神(有賀直人さん提供)
お嫁に来たみなさんは、こちらに来て印象的だったことはありましたか?
トキ子さん「私はね、こっちきてみんなで共同での雪かきとか、敬老会のご馳走作ったり、おどりを踊ったり、なんていうのが良いな、と思ったよ。楽しかったよね、ぶっつけで色々踊ったり。ここ(公民館)でもそう。今はもうやらないね。」
なぎさん「お嫁に来て一番びっくりしたのは、葬式。全部公民館でやったから。」
トキ子さん「最初は家でやっただよね。」
なぎさん「みんな何日も仕事休んで。男の人は墓掘って、あとはダラダラして。あと女衆がお料理全部作って。何日分も。それがびっくりしました。」
トキ子さん「うちの旦那が亡くなった平成6年までは公民館でやったね。」
なぎさん「男の人が役やったり区長やったり、何かすると、その奥さんってだけで出てって料理作ったり、色々しなきゃいけなかった。それが当たり前だったから。仕事も休んで。」
ゆきさん「近所の交流ってのがすごかったからね。昔はゆいってのもあってね。お田植えしたり。あとは薪取り。しょいこ3個背負って、向こうの釜無の山に行って。橋もないからさ、部落で出払いで橋を木でみんな作るの。」
良美さん「私たちもやったよ。嫁の立場でみんなやった。」
なぎさん「どこに橋かけるの?」
良美さん「毎年同じところにかけ直すんだけど、どこだったかな。」
ゆきさん「ま〜良くやったね。今でもあれあるよ、しょいこ。」
良美さん「それがしょい良いんだわ。」
ゆきさん「それで薪をお蔵の前に山ほど積んでさ。それをお風呂に焚いてたんだもん。あとはひじろ(*)っちゅうのがあった。そういう生活してたの。」
*囲炉裏のこと
良美さん「今考えるとすごいけどさ。事実やってた時代はね、それでまた良かったよ。お田植えの時期は、ホロかけたトラック 5 台に15~20人乗ってさ、1ヶ月くらい山梨の甲州田植えに行ったよね。子どもは年寄りに預けるからおっぱい張ってつらかったけど、なにより色々なニュースや面白い話が聞けて楽しくてね。」
原村からお嫁にきた印象はどうでしたか?
良美さん「おまちだったね。(生まれ育った)中新田は大きいけど、しっかり田舎だからね。みんな農業で生活して。ここは宿場町だから。」
トキ子さん「私が一番印象なのはさ、家がみんな引っ付いてるじゃんね。だから役やったときにさ。あれ、この家間違ったかなと思って(勘違いしちゃう)。みんな同じ格好だから。」
千敏さん「宿場町は家と家が繋がってるから、途中の家を取り壊すと、その両側の壁がむき出しになっちゃって。隣がなくなるから(壁の改装を)“しょうがねえやるか”という感じ。」
昭和4年の甲州街道(上蔦木区誌より抜粋)
屋号が付いていると、やはり宿場町という感じがしますね。
ゆきさん「うちらこれ頑張ったじゃん。看板とかさ。」
良実さん「自分はやんなくって、たけじさんに押し付けたじゃん。」
なぎさん「公民館でのお葬式のあと、精進落としの時に、その場でみんなで盛り上がって、立ち上がった話だね。」
ゆきさん「甲州街道だから、みんな歩いているね。どちらですか、と聞くと、東京、とかね。」
なぎさん「さっきもいたよ。お店もないからお金落としてもらえないけどね。通過するだけ。」
ゆきさん「民宿やれば良いよ。」
明治30年ころの屋号と家並み *窪田幸人氏作成(上蔦木区誌より抜粋)
子どもの頃どんな遊びが楽しかったですか?
ゆきさん「近所の子たちと、お宮や分教場で遊ぶのが楽しかったね。」
千敏さん「今、お宮(十五社)があるでしょ。そこに学校(分教場)があった。俺たちの頃は、1、2年生の頃そこへ通った。上蔦木と下蔦木でひとクラス20人くらいいてね。桜がすごかったんだよね。桜が咲き終わると校庭が花びらでいっぱいになって。」
蔦木分教場(有賀直人さん提供)
千敏さん「そのあとは、机(旧落合小学校)まで通ったんだよね。子どもの足だと1時間くらいかかるんで。帰りは河原で遊んだり。今は “遊んじゃだめ” とか、そういう風になってきたけど。昔は夏の間は釜無川に泳げる場所を作って。誰か親が2人くらい見張りして。魚を獲ったり、家からジャガイモ持ってって焼いたり。それが楽しみだった。」
魚は手で捕まえるんですか?
千敏さん「手で捕まえるっていうのもあるし、モリっていうフォークのでかいやつで突いたり。箱で下をガラス貼りにして(水中を)見ながらね。親に作ってもらって。伏せ瓶っていう、魚が入れるけど出られないのがあって。これは今井店で買うんだけど。小糠を餌にしたり。カジカとか、ハヤとか獲れたね。」
ゆきさん「釜無川の水も綺麗だったね。うちの主人は釜無の漁業組合の役員もやってさ。ほいで、ますを釣ってきてさ。保育園の入園式、卒園式に主人がみんな甘露にして持ってくの。昔はちょっと一杯出したの、来賓に。そしたら、“おらあこれが食べたくて来るだ”って、烏帽子の町会議員やってた人がね。釜無はすごく綺麗だったね。釣り人が100人くらい来てね。水泳だって私たち、釜無でやったの。学校にプールなかったから。」
良美さん「田舎は田舎なりに川を利用してね、良かったよ。」
子どもの頃、印象的だった区の行事などはありますか?
千敏さん「あのね、ここは子ども相撲が盛んだった。俺が小学生の頃、お宮がここ(今の農協がある場所)にある頃は、この近辺でも、盛大なお祭で。今はもう、お祭ったって、小さい規模なんで。昔はもう何日って決まっていてて。平日でもやる。だから子どもの頃は学校が終わって、急いで帰ってきて。」
当時の十五社(有賀直人さん提供)
今も続いているんですか?
千敏さん「やることはやってるんだけどね。参加する子どもが少ない。子ども自体が少ないし。外へ出た人の子どもが帰ってきて出るという感じ。」
千敏さん「ここの地区だって、俺が小学校の頃は(世帯が)120か130はあったと思うけどそれが今は79か。ここは移り住んでくる人が少ない。だから子どもが当然少ない。日当たりの問題じゃないかな。若い人が戻ってきたり、移り住んできた人が必ず区に入って色々やってくれれば良いんだけどね。」
ゆきさん「常会もね、うちは今5軒だけ。すぐ色々、農事とか衛生とか電気柵とか、回ってきて大変なの。もうできなくなる。」
なぎさん「できるだけ仕事を減らしていく方向にしてって言うけど。男衆が全部決めるから。仕事は減らせるけど、お祭り関係は減らせないので、どうしようもない。」
ゆきさん「今年お祭りがなくなって、内気ひろしって人がきて。カラオケの、ものまねの。諏訪に住んでるって言ったね。今年来てくださって。良美さんも出たら。お祭りの。盛りあがってすごく。」
トキ子さん「良かったね。」
良美さん「トキ子さんも歌ったじゃん、良かったよ。」
なぎさん「もう運動会をずっとコロナになってやってなくて、今年から運動会どうしましょうって話になって、運動会はやらないけど、今言った演劇会にしましょうって話になったのよね。」
ゆきさん「運動会は子ども少ないしね。高齢になってきたから私たちも大変で。(演劇会の)手品も子どもたち喜んでねえ。」
トキ子さん「みんな結構ねえ大勢来てたね。あの人も来ないって言ってたけど来てさ。30人以上もいたね。ほいでもとの町長さんも歌うたってっさ。98点だかで。」
ゆきさん「なにしろ笑うことが良いのよ。」
インタビューから想像を膨らませた上蔦木の風景(藤原一世 作)
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スケッチについて:
インタビューの会話にも登場していた、今はなき豆腐屋の一幕を「6、70年ほど前はこんな風だったのかな」とイメージして描いてみました。
豆腐屋は、近くに湧水の水場があった上蔦木区の特徴の一つだと思います。宿場町では職住一体の生活様式で、家もそれに適した空間になっていたようです。台の上の容器の水に商品の豆腐が浮かべてあり、客が持参したボウルに豆腐を入れてあげるスタイルだったそう。自作の大豆を持ってきては、豆腐に仕立ててもらう客も少なくなかったと伺いました。入り口端の樽にはそういった大豆が積まれていたかもしれません。
昔は薪の窯で大豆を炊いていたので、薪割職人が出入りしており、大量の薪が積まれていたそうです。窯の鍋からは湯気の立ち昇り、作業場を白く包んでいたことでしょう。その作業場の壁や天井は湯気・湿気対策で鼠色のトタンで覆われていることもあったようです。タイル張りの水槽には、次々に出来あがる大きな白い豆腐が飛び込んできては浮かんでいる光景が目に浮かびます。話によると、卸先には自転車で配達に行っていた豆腐屋もあったようですが、量が多い時にはリヤカーを引いていたこともあるのではと思います。
かつての上蔦木区の日常の中、そこにあったはずの空間スケッチを、インタビュー記事に添えました。
藤原一世
Written by
編集:渡辺葉
スケッチ:藤原一世