2022年の暮れ、富士見駅前にある油屋の旅館だった建物が解体された。
油屋旅館の前庭に大きな木があり、来客を和ませていたという。
解体工事の途中、木は残るのだろうと思いながら見ていたのだが、数日後通りかかるとすっかり更地になっていた。
油屋旅館は、富士見駅の開設にともない、明治39年に13代当主が蔦木宿から富士見駅前に建物を移築する。多くの文人墨客が訪れる中、昭和4年の駅前大火で消失。(宿泊名簿や文化人たちの貴重な資料も失われた。) けれども、建物はすぐに再建され、以降も多くの文化人が来訪、特に短歌関係者の定宿的存在になったという。
また、結婚式の式場や祝儀などの会場としても使われ、地域の人たちに思い出の場を提供していたとも聞く。
「大正二年頃の富士見区の略図」
(「七十五年史」 富士見区史編纂委員会/編集 富士見区/発行) より
時は流れ、世の中の変化に伴って、近年、旅館業は営まれなくなったが、「油屋」の看板と共に、旅館だった建物は残っていた。
2022年秋、旅館としての建物もなくなってしまうという話が聞こえてきた時期、この町に居合わせた何人かで、建物の一部だけでも残せないかと細々ながら働きかけをしたものの、願いを叶えることはできなかった。
それならせめてもと、油屋旅館を舞台に行われた、近代短歌史上特筆されるともいわれる明治41年10月の油屋歌会について、資料に当たってみることにした。
実は富士見町には、油屋歌会が発端となって作られ、現在も大切に守られているものがある。
富士見町の玄関の一つ、JR富士見駅。プラットホーム側の改札口横に短歌と詩の拓本が飾られている。富士見にゆかりの深い歌人と詩人の歌碑などの拓本で、富士見が文筆家たちに愛された土地であることを、訪れた人に知ってほしいという願いが込められているのだろう。
拓本の歌人は、伊藤左千夫、島木赤彦、斎藤茂吉。拓本となった歌碑は富士見公園にある。
富士見公園。
伊藤左千夫は歌会のため来訪した折り、地元の人たちの案内で原之茶屋の小丘に立ち「ここは自然の大公園だ。小細工をして自然を損ねぬように公園にして残したらよい」と激賞。左千夫自ら設計し、村人とともに公園を作り上げたのだそうだ。
丘の上の雑木林の中に歌碑や句碑が点在する、ちょっと他にない公園。
公園にある伊藤左千夫の歌碑
「寂志左乃極爾堪弓天地丹寄寸留命乎都久都久思布」 (左千夫 詠 赤彦 書)
(さびしさの きわみにたえて あめつちに よするいのちを つくづくとおもう)
同じく島木赤彦の歌碑
「水海之冰者等計而尚寒志三日月乃影波爾映呂布」 (赤彦 詠 茂吉 書)
(みずうみの こおりはとけて なおさむし みかづきのかげ なみにうつろう)
現在も毎年秋、富士見公園を会場に「赤彦祭」が開かれ、また、町の観光課などが主催する見学ツアーも行われている。
さて、富士見公園がつくられるきっかけとなった伝説の油屋歌会とは・・・
今から115年前、明治41年10月10日午後3時、油屋歌会が開かれた。
歌会開催予定13日前の9月28日、信州の短歌誌「比牟呂」同人全員に島木赤彦の緊急訴えが届けられた。
「富士見高原の文学碑を訪ねて」(富士見町公民館編)より
差出人、久保田俊彦(島木赤彦)の高揚感、緊迫感が伝わって来る。
島木赤彦の訴えに応じたのは、東京から来訪した伊藤左千夫、古泉千樫と、近隣在住14名の計16名。
「草」兼題で歌会を実施し、翌早朝記念撮影が行われた。
「島木赤彦文学アルバム」(島木赤彦研究会編 謙光社)より
油屋歌会での左千夫の歌。
空近き富士見の里は霜早みいろづく草に花も匂へり 他4首
同じく赤彦の歌。
枯野原芒折りしき眼をきはめ見る水遠し夕雲の下に 他2首
歌会の席上、赤彦は最大の懸案事項「阿羅々木」と「比牟呂」の合同を提案する。意見が交わされ、合同の方向で話がまとまったという。
「アラゝギ」第二巻第一号で、赤彦は以下呼びかける。ここからも赤彦の高揚感が伝わる。歌会時に交わされた話し合いを受けての提言だろう。
「比牟呂同人に告ぐ」 柿の村人(島木赤彦)
上総の「アラゝギ」が東京に移って新しき活動に入らんとする時「比牟呂」は自ら進んで「アラゝギ」に合同した。「アラゝギ」「比牟呂」と力を二にして動くべき時で無いと信じたからである。(略)
「比牟呂」同人は殆ど信州同人である。信州人の活動が「アラゝギ」誌上に存続し発展しつつある間は比牟呂は永久に其生命を持続するものである。二の力は岐れて東西に働いて居た。二の力は合して今後中央の一所に集注する。集注する力は全力でなければならぬ。比牟呂同人の努力が永久である事を思うて合同の辞を終るは愉快である。(略)
〈 「アラゝギ」第二巻 第一号より 〉
油屋歌会で、赤彦が合同を呼びかけたのには次の事情があったという。
以下、富士見町教育委員会編「富士見公園について」に寄るのだが、明治31年正岡子規は短歌革新運動に着手し、根岸短歌会を起こす。子規没後、門人の伊藤左千夫、長塚節らにより短歌誌「馬酔木」が創刊され、三井甲之を中心として「アカネ」に引き継がれる。
「アカネ」同人の意見の相違のごたごたの中、明治41年、蕨真一郎が上総で雑誌「阿羅々木」を発行。左千夫は「阿羅々木」に自分の作品を載せるようになり、左千夫、甲之の争いは表面化。
一方諏訪地域では、明治32年岩本木外により「諏訪文学」創刊。「諏訪文学」廃刊後、明治34年、赤彦が短歌誌として「比牟呂」を創刊する。「比牟呂」同人は活発に活動していたが、「阿羅々木」への合同の気運が高まり、先の赤彦の「比牟呂同人に告ぐ」となったのだそうだ。
明治41年10月10日の油屋歌会を経て、明治42年9月1日、「阿羅々木」と「比牟呂」は「アララギ」として再スタート。その後「アララギ」は紆余曲折はあるものの短歌界に大きな流れをつくっていく。
尚、富士見での左千夫や赤彦などの資料は「富士見高原ミュージアム」や「蓼科親湯温泉」でも見ることができる。
蓼科親湯温泉
油屋歌会は近代短歌史のみならず、富士見町の文化にも少なくない影響を与えたのではないだろうか。
富士見村の満蒙開拓の本を読んでいた時、巻末に満州に赴いた開拓団員の短歌
114首が(俳句147句も)掲載されているのを見て驚いた。
町の墓地で、著名なわけではない住民の歌碑や句碑をよく見かける。
現在の富士見町には短歌や俳句のグループがいくつもあり、活発に活動しているという。
この地域の、近代以前から今につながる詩歌の文化の伝統の中で、油屋歌会が残したものは、恐らくかなり大きい。
「開拓団員の短歌」(「富士見分村満州開拓誌」富士見村拓友会編)より
油屋歌会が、富士見町の文化の歴史として後世に確実に残されることを願う。
どこかで密かに眠っているかもしれない関連資料も、発掘、保管されるといい。
参考資料
- 明治40年代の短歌誌「アラゝギ」「阿羅々木」「比牟呂」 (いずれも諏訪市図書館所蔵)
- 「富士見高原の文学碑を訪ねて」 富士見町公民館
- 「温厚篤実な人 14代旅館主 窪田重富」 林芳友 (「高原の自然と文化」12号)
- 「島木赤彦文学アルバム」島木赤彦研究会編 謙光社
- 「七十五年史」 富士見区史編纂委員会
- 「富士見分村満州開拓誌」富士見村拓友会編
- 「島木赤彦」赤彦記念館図録
(Written by 村上不二子)