今、私たちが住むこの美しい富士見町の風景は、地元の方々が代々守ってきたもの。それぞれの地区には特別な思い出があり、未来に向けたヒントがたくさんあります。インタビューとふるさとの風景を通して、富士見町にある39の区の魅力を少しずつお届けします。
高森区
- 人口:
- 377人
- 面積:
- 2,310,017㎡
- 宝:
- 大泉湧水、小泉湧水、押立山、八幡森、高森観音堂、境小学校、境保育園
- 集落の成り立ち(富士見町史から抜粋):
- 高森村は富士見町域の東北部にある村で、村内を甲州道(善光寺道)が通っている。慶長18年(1613)の検知高帳に84.7石とある古村だが、村の起源は明らかでない。村名の由来については、村社にまつった健御名方命(たけみなかたのみこと)の子、高杜神にちなんだとするものや、八幡の山に大木が多く、遠くからも目に付く高い森であったからなどの言い伝えがある。家数は享保の「諏訪藩主手元絵図」に38軒という数字が残っている。高森村の東北部には押立山とよばれる小丘がある。別名国見山とも言われ、藩主が新しくなって、初めて領内を巡見した際ここにのぼったという。この押立山付近には猪垣が置かれ、猪や鹿の害を防いでいた。葛窪から茅野まで延々延びていた。
- インタビュー:
- 小林實さん(昭和11年生まれ 87歳)、小林美佐子さん(昭和12年生まれ 85歳)、小林友子さん(昭和19年生まれ 78歳)
※インタビューを実施した2022年12月21日の年齢
みなさんが子どもの頃と今では、高森の様子は変わりましたか?
美佐子さん「公民館がある高いところは新しいな。なにしろこっち(やまゆりの道の前)は水が通ってたからな。ここが昔一番栄えたところだ 。この通りも水車なんか、三つもあった。昔はみんな家で精米したからな。」
實さん「今高森はこういうふうに部落が広いけどね。今は境小学校の行く途中に建物があるじゃん、いっぱいにね。ああいうのはなかっただ。あれは戦後できた。昔はここだけの部落だった。」
實さん「だけど高森はあそこら(道祖神のあたり)が古かっただな。道祖神のそばに竪穴式住居があって馬車が通って落ちたとかね。」
實さん「境小学校に行く途中に今諏訪アスコンがあるけど、あの上に境村の役場ちゅうのがあった 。それが火事になってね、役場が燃えちゃって。その頃は富士見町っていうのはなくて、境村だったから。小六から葛窪までの7部落の。」
子どもの頃どんな遊びが楽しかったですか?
實さん「学校の帰りに遊んだっちゅうか・・・遊びにはあんまり行かなかったな。なにしろ家で年中畑の草刈りとかそんなものばっかりさせられて。」
美佐子さん「学校から家に帰るまでが楽しかった、帰れば仕事だった。」
友子さん「学校の帰りに嘉守さんのりんごを盗んで帰った。みんなそうだったよね 。そこをみんな通って、ときには大泉の方まで回って、水飲んだりミツバチ獲ったり、きのこも採ったり。」
實さん「あの頃は、山へ栗拾いだとかな、きのこ採りだとか、蜂追いとかって、子どものころはそれが遊びだっただな。食べ物が今みたいに豊富じゃなかったからな。虎杖(イタドリ)を取って食べたり。」
友子さん「塩持って歩いてたじゃん。塩つけて食べたり。」
美佐子さん「山葡萄や小さいアマンドウ (豆柿)がとてもうまくて。」
友子さん「あれを食べれば辛い、とかすっぱいとかみんな知ってた。ちゃんとした道を帰るっていう人はいたのかしら。 」
實さん「蜂追いっちゅうのが面白かっただ。赤蛙を獲ってな、皮を剥いて吊るして蜂がたかるからさ。たかったら蜂に真綿で食わして。林の中を追っていくだ。あれが楽しかっただな。自分で薬を買ってきて、蜂を酔わすのに炭と硫黄と硝石を混ぜて自分で作って、蜂の穴の中に入れると、しゅーっと煙が中に入ってく。」
美佐子さん「蜂がみんないっぱい寝てるだな。酔って。蜂の子を食べたり、箱で飼ったりな。朝眺めるのが楽しくてな。出入りしてる、元気だな、なんて。」
實さん「あとは、鯉子(コイゴ)ちゅうのを買ってきてさ。田んぼへ入れてずーっと夏中育てて。ほいで秋になってあぜを切って水を出して、柵をやって出ねぇようにして、そうすっと寄ってくるから獲って。川端行って腹をみんな切って出して、そいで煮て食っただな。」
美佐子さん「あんときゃうまかったなあ。他になにも動物性がないもん。」
友子さん「間違ってフナが流れてきたりしたもん。え、来た!なんて。」
實さん「今はU字構でなんもいねぇけんど、前はドジョウがいたりカニもいたりさあ。そいで魚なんかもいたよ。ドジョウは今もいるずらけどな、サギがみんな食べてだめだ、ありゃ。カニもだめだ、U字構にしちゃったから。」
水が綺麗だったんですね。
美佐子さん「ここは井戸がなくて、みんな川から良い水が通ってるからな。川で顔洗ったり歯磨いたり。川の水がうまかっただ。ほいで、お茶碗や鍋洗ったり。」
友子さん「川の底んところにご飯粒が並んでるなんて、しょっちゅうあった。」
美佐子さん「前はみんな川だった。お風呂もなんでも。」
實さん「川からバケツで水を汲んできて、桶へ運んで入れてさ。ほいで五右衛門風呂を薪で燃して。」
美佐子さん「1週間に1回入れれば良い方だ。隣近所にね、今夜お風呂来てください、なんて言ってくるから、子どもが。そしたら借り行っちゃ。 隣衆が入るだもん。中で洗うだからなあ。朝見りゃなあ。あんまりじゃなかっただけど、それでも良かっただ。楽しかった。外で。雨降った時は傘さして。今考えりゃ懐かしいね。」
實さん「露天風呂だもんな。」
虫の声を聞きながらはいる月夜の庭風呂。
(写真・コメント:武藤盈 昭和36年9月 池袋)
区の集まりや出払いはどんな様子でしたか?
美佐子さん「(南中学校は)みんなで出払いで出て、親達で一緒に作った。重機なんかねえだから。」
友子さん「土なんかもっこで運んで。学校には熱心だったね。(建物も)親が作ったよ」
實さん「境村には、運動会ちゅうもんがあっただ。ほいで各部落対抗で 」
21歳の實さん、高森の応援団長を務めた。
(写真:武藤盈 昭和32年6月 境小学校)
美佐子さん「面白かったな、みんなでお重もって。あれは昔の楽しみだ。他に遊ぶところも旅行も何もないから。」
友子さん「足がついている人は大人も子どももね。家族でみんな行って。よその子どもでも、なんでもね、来ればほれ食えだもんね。」
美佐子さん「ほいで、収穫祭もあって、お父さんなんか、素人演技なんてやったりして。」
實さん「今のライスセンターがある辺に、高森の田んぼがあっただ。みんなで当番でつくっただね。採取田で採った米で麹を取って甘酒を作っただ。ほいで、村の役員が、夜一晩中寝なんで甘酒っちゅうのを作っただ。その当時青年会でひとしきり踊りだとか演劇だとかを練習してね。今の公民館の補装した庭があるじゃん。あそこらへんに建物があっただ。ほいでその庭にみんなでもって寒いから周りに囲いをしてさ。11月頃さ。早い時期はぱらぱら白いものが舞ったりしてね。」
美佐子さん「稲刈りも手でやるから今より遅かった。」
實さん「今はどうしてるかな、どんど火。子どもの頃はね、自分らで木を運んだだ。大泉の林からね。木の枝を先輩が切って下ろして。ほいでみんなでもって枝へ縄をかけてずーっとあの道を引いてきて。田んぼへやぐら立てて。」
美佐子さん「竹は良い音するとか言って、蔦木に盗みに行っただ。」
友子さん「(高森には)今ほど竹はなかったよね。今はびこっちゃってるけど 。」
實さん「わざわざ夜行っちゃ、盗みに行っただ、みんなでね。蔦木まで。」
夜蔦木の方まで降りるんじゃ、暗かったでしょうね。
實さん「お盆のころになると墓地で度胸試しやったよ。ひとりづつ歩かせるんだ。墓地の中を。」
友子さん「私たちはさ、お堂の裏側にお葬式の葬礼の道具が一式あったじゃん。」
美佐子さん「あれおっかなかったなあ。」
友子さん「お堂の裏をずーっと歩いて、帰ってくるっていうの。途中で泣いてね。」
美佐子さん「高森でも無縁仏っちゅうのがあったけんど。」
友子さん「放浪してきて、お堂に住み着いちゃったり、小柳橋の下に住んじゃったりするひとがいて。村の人は冷たくなくて、面倒見たのよ。それでも亡くなっちゃえば、それこそ道祖神のあたりで亡くなっちゃうと、みんなで弔ったのよ。案外女の人がいたって聞いた。」
美佐子さん「遠くから来た人がお墓も身寄りも何もなくてな。高森はみんな苗字が違う人はよそから来た人だよな。みんな小林だに。よそから来た人は無縁仏みたいになって。」
当時の子育てはどんな様子でしたか?
美佐子さん「私なんかね、百姓で子育てなんてちゃんとしなんでね。田んぼや畑へ年中行って、農家の嫁なんて。離乳食なんてちゃんとしなんで。それでも子どもは大きくなってね。昔はやっぱり、農家の嫁さんなんて、えらかったよ。子どもなんて見ていられねぇ。子どもはおしゅうとさんが見てね。自分は田や畑に毎日行って。(保育園の送り迎えも)おしゅうとさんがやったりね。そうでなきゃ、隣近所で当番制で一緒に連れて帰ってきてもらって。」
田植えの日いずみで寝る子ども。
(写真:武藤盈 昭和31年6月 池袋)
美佐子さん(写真を見て)「いずみの中に子どもいるな。ほーだほーだ。お母さんが仕事するだに、田んぼの端に寝かしてね。やったやった。長男はこういうのに入ってた。」
美佐子さん「今も一軒の家じゃみんな家中で稼がないとな。みんな奥さんだって働いてるじゃんな。今の世の中もね。」
高森の中でお気に入りの場所はどこですか?
實さん「高森は地形的に良いよ。八ヶ岳・南アルプス・富士山が見えて。区全体が良いと思うけどね。」
實さん「(八幡森を指して)保育園があるだ。あの辺を言うだ。(保育園は)前はなかったね。あそこはずっと森みたいになっててね。眺めが良いっちゅうことだな。富士山が見えたり。」
美佐子さん「昔は小海線も見えたっちゅうだ。」
實さん「(大泉湧水や小泉湧水も)しょっちゅう行くわけじゃねぇけど、高森に住んでれば良いところだなあって。あそこはずっと前はね、大泉の前は今は林がずっとあるけど、林っちゅうよりはずーっと広い、田んぼへ草を入れるための牧草地だったよ。田んぼは昔は草を刈って入れたり、木の枝を田んぼへ入れただね。今みたいに化学肥料があんまりないし、堆肥の代わりにね。」
實さん「前に池のとこを利用して観光地にしようだなんて、昔のおっちゃんたちがね。若い青年会の人たちも連れてきちゃ、ここをこうにやって、金儲けしようなんてやったけど、結局あそこは公の湧水だからね。そんなことやらねぇようにしようって言って 」
實さん「中央道作ってから、信濃境とか池袋とか、どんどん戸数が増えてくるからね。水が貯水槽ないと賄いきれなくて作っただ。高森、信濃境、池袋、烏帽子と4部落へ大泉の水が行っているだ。」
美佐子さん「ここは学校は近いし駅は近いしな。店だって農協もやってるし、しなのもあるしな 。(駅も)昔はぞろぞろ乗ったり降りたり。今は1人か2人だな、見てると。昔はあそこらみんなお店でな、成り立ってたけど。」
高森でこれから「ここが心配だな」と思う事はありますか
實さん「高森区も例外でなくて、少子高齢化で子どもや若い衆が少ないな。(むかしは)ひとクラスは50人、クラス3つあったからね。多かったね。」
美佐子さん「高森に同じ学年の子が10人だか20人いたっていうじゃん。」
實さん「当時は子どもが多かったから結構にぎやかだった 。今じゃ子どもがいない日が多いけんど。前は毎日のように学校帰ってきた子どもがそこら辺で遊んでたね。」
美佐子さん「今日の広報ふじみ見たら、生まれる人は2人くらいで死んだ人は11人だから、人口は減るわけだね。今に保育園だってここおしまいになるな。小学校だって分からねぇし。」
高森に昔あったものや「これは残したい」というものはありますか
美佐子さん「昔は御神楽ってあったな。」
實さん「ほんとに子どもの頃で、暑い頃でな。7月7日の。(赤い獅子頭つけて)各家をずーっと回って、家の中に入って踊っちゃ。座敷で踊ってな。なんぼか出しただな。各家をずーっと行って。子どもがその後ついて行ってな。それがな。そういうのがやっぱり、昔からあれば良いななんて思うだけんど。どうしちゃっただか。」
美佐子さん「ねずみに食われて燃したってことは聞いたけんどね。顔がかじられたってことずらな。だって今ありゃね、それ修繕したら使えるのにね 。乙事とか小六は頑張ってるわ。やっぱり伝統とか文化とかは残しとかないとね。」
美佐子さん「ほしたらな、この間な、総会でな、お念仏なんてという話も出て。お父さんが言って、有志だけでやろうっちゅうことに。」
實さん「高森の総会の時に、だんだん集まる人がいなかったりするから、やめるかどうするかって言うから、俺がほら、やめるっちゅうことじゃなくて、有志でやった方が良いじゃないかと言って、今は有志で高森からお金を貰ってやってるだ。」
美佐子さん「お念仏だって、お堂のことだから、宗教に関係ないから。1年に6回だかあるからね。区からお茶の子でるから、お茶の子もらいに来たら良いよ。まちから来た人も来るよ。区でやってることだからね。とても大事なことだからね。昔からの。こういうの見りゃ、みんな守られているように、あるだね。」
實さんが作成した高森の念仏講に関する冊子(表紙絵:實さん)
インタビューから想像を膨らませた高森の風景(藤原一世 作)
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編集後記:
私たち家族も暮らす高森からスタートしたこの企画。高森を描くなら大泉と小泉も入れたい、ということで、集落の風景の絵がかなりのスケールに。水路を確かめよう、と夫と長男で地元の方とも行きあいながら高森を歩き、インタビューの中で出た話や古い地図なども参考に描いていました。いつの時代の絵なのか、車のない頃の高森の絵。こんな風景が広がっていたのでは、という想像を膨らませた絵です。
学校の帰り道、自然の恵みを頂きながらたくさんの道草をして帰っていた子どもたち。食べられる植物や魚や虫が豊富で、景観も良く、湧水にも恵まれ、本当に豊かな集落だったことが分かります。何もなかったけど、あの時は楽しかったなあ、と笑顔で話してくださる3人から幸せのお裾分けを頂いたような気持ちになりました。
今子育てしている私たちにとってもヒントになるエピソードがいくつかありました。自分も田畑が忙しくて子どもは見てられなかったけど、今のお母さんも働いてみんなで家族を支えてるね、という美佐子さんの言葉に、共働き家庭としては大きく励まされました。そして、運動会や保育園の送り迎えなどのお話から、地域全体で子育てしていたからこそ、当時の子どもたちはこんなにものびのびと自然の中で遊べたのではないか、と考えさせられました。
インタビューを終えて席を立とうとした時、「高森は良いかい」と声をかけてくれた實さん。こんなに良いところで子育てができて嬉しいです、と答える私たちに「そうか、良いところか」とやさしい笑顔で見送ってくれました。
Written by
編集:渡辺葉
スケッチ:藤原一世