文化・景観

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる

紅葉の美しい11月5日、冨士見町の乙事区の文化財を歩くイベントに参加しました。

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる

 

まずは、乙事区役所の2階を見学

 

すごい!!
ガラスケースの中には、町の有形文化財に指定されている十一面観音像や釈迦如来像が展示されていました。
乙事区でこれだけ貴重なものを保存するのは大変なことだと思いました。

 

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる

 

その中でも私の心をわしづかみにしたのがこれ↓

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる

木喰上人作 普賢菩薩像

「木喰上人」をググってみると・・・
「木喰(もくじき)とは、米殻を断ち、木の実などを食べて修行することをいい、そのような僧を木喰上人と呼ぶ。」とありました。

この作者の木喰五行(ごぎょう)上人はこの像を3日間で掘り上げたそうです。

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる

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ネット検索ではこんなお顔をした普賢菩薩様は出てきません。
何をおっしゃりたいのか?なにを考えていらっしゃるのか? お顔を覗き込んでいる、こちらの方までニヤニヤしてきちゃいます。
白い象もなんだか愛らしい表情。
乙事の皆さんは「甘酒ばばあ」と愛称で親しみを込めて呼んでいるそうです。

 

乙事諏訪社へ

 

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丁度紅葉が美しく、木々の中に立つ神社は荘厳でした。

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる

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富士見町に住んで30年余りたちます。でも、こうして歩いてみると知らないことがたくさんあると改めて感じます。

乙事神社が諏訪社と深いつながりがあり歴史ある神社だとは聞いていました。でも、以前は国宝に指定されていたとは知りませんでした!
乙事諏訪社(拝殿・幣殿)は、諏訪大社上社本宮の社殿建て替えのおり払い下げを願い出て1849年に拝殿、4年後に幣殿を移築したものなんだそうです。

町史を紐解いて、その経過を追ってみました。(以下、町史より抜粋)

ところで、文禄二年(一五九三)に上社本宮の仮殿を乙事村に移築したことが、嘉永三年(一八五O)の古拝殿附書添証によってわかるから、江戸時代以前から乙事村と諏訪神社とは深い関係にあった。この仮殿というのは、元和三年(一六一七)に造営された拝殿より古い時代に建造されたものであるから、天正十年(一五八二)織田軍によって焼かれた後、諏訪頓水によって造営された社殿と思われる。この社殿がたとえ仮殿であったとしても、乙事村に移築するといらことは、乙事村が大祝の知行所で、早くから諏訪神社と特別のかかわりをもっていたからであろう。

諏訪神社造りと言われる特有の建築様式を持つなど、重要な建築物として1930年(昭和5年)に国宝に指定されます。
ところが、1948年(昭和23年)に帳屋(舞屋)からの出火で拝殿と幣殿も全面的に炭化する損傷を受けます。(以下、町史より抜粋)

ところが、昭和二十三年(一九四八)四月三日午後十時近いころ、境内の帳屋(舞屋)から出火した火は、たちまち拝殿、幣殿、本殿のかや屋根の覆屋に焼き移り、これらの建物を焼いた。この夜は、小雨まじりで、わずかに風のある程度の天候であったが、水の便が悪いために人々の消火の努力もむなしく、炎が国宝の建物をおおいつくした。帳屋、片拝殿、本殿は全焼してしまったが、幸いにも国宝指定の拝殿、幣殿は全焼をまぬがれた。とはいつても、柱や梁、貫などの表面は炭化し、彫刻の彩色はおち、いたみはひどかった。幣殿の桟唐戸は取りはずして持ち出したが、これも破損が、はなはだしく格狭間の組子は大破した。

その後、村民の熱意によって昭和25年に復元されます、この経過も並大抵な苦労ではなかったようです。(以下、町史より抜粋)

このようにして、待望の復元工事は、村の人々の努力と文部省の比類のない建造物という理解のもとに、復元を計画してから二年半という歳月と総工費一八二万円余をついやして完成した。

 

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる

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炭化した木材が大切に使われています。
出火当時、懸命に消化活動をした村人たちの姿が思い浮かびます。水の便が悪い中、どんな想いで消火活動をなさったのでしょう・・・

その後の修復への困難な道など当時の村民に想いを馳せる時、そうした村民の想いこそが歴史として受け継いでいくべき宝だと思えました。

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる

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宮崎駿さんの講演を思い出す

 

それにしても、どうして乙事は上社社殿を払い下げてもらえたのでしょうか?
どうやら、乙事村は諏訪神社と特別な関係にあったようですが・・・
乙事が大きな集落に成長したのはどうしてなのでしょうか?

そんな事を考えていたら、以前宮崎駿さんが稗の底村や乙事村について話をされていたのを思い出しました。

2002年7月~11月に「甦る高原の縄文王国」 藤内遺跡出土品重要文化財指定記念展 全6回、講演会や座談会が行われました。

この中で「富士見高原は面白い」という題で、宮崎駿さんが当時の南中学校で講演をなさいました。これはのちに言叢社から宮崎さんが講演のためにお書きになった絵なども入れられて出版されています。

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富士見町の歴史についてもとても詳しく、お話の中に出てくる昔の人々が生き生きと思い浮かぶような講演内容でとても印象に残っています。
そこで、講演録集を引っ張り出して読み直してみました。

富士見町には、標高1200メートルにあった稗之底村の跡があります。寒さが厳しく作物も取れず江戸時代の初頭に廃村となった村です。稗之底村から人々が現在の立沢や乙事に移り住んだとされています。

宮崎さんのお話では、平安時代に京都の政府から牧をつくれとの命令が出され、立場川を挟んで柏前牧と山鹿牧が作られて馬が飼われていたという事です。(宮崎さんのお話は縄文時代から始まってめっちゃ面白いです)

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「甦る縄文王国 言叢社からより」

以前「乙事堰(セギ)~水の旅をたどる~」でも紹介しましたが、稗之底には豊かな湧水があります。

稗之底が牧全体の大切な水場だったのではないか?
夏の間は放牧していても冬の間はどこかに囲っていたはずだ。
稗の底が馬寄せ場になっていたのではないか?
と、宮崎さんの言葉を借りると妄想が広がっていくそうです。

以下、講演録集から抜き出させていただきました。

そういうことで、この八ヶ岳の麓の稗之底というのは、ただの貧乏な寒さにおびえていた村じゃなくて、そこは馬のいななきや、鉄を打つ音や、遠くから荷物を運んでくる人が往来するところだつた。上田と甲州をつなぐルートを行き来していた。それは、いまのようにダンプカーが堂々と通るようなルートとは違いますが、そういう村だつたと思います。

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる
甦る縄文王国 言叢社からより」

 

今までの、寒くて住めないような厳しい土地だったという暗いイメージがすっかり変わってしまいました。そして当時の人々の快活な暮らしの様子が目に浮かびます。

宮崎さんは当時の百姓の暮らしぶりを生き生きと語ってくださいました。そして歴史学者の網野善彦さんの言葉を引用して次のように続きます。

で、これは網野善彦さんという歴史学者がさかんに書いていますが、日本の村というのは、農民だ、農民だと言うけれども、実は農民は本当に少なくて、馬で物を運んだり、機織をやってたり、居酒屋をやってたり、油屋をやってたり、いろいろな職業をやっている。百姓ってのは、百の職業の人たちを含んでいるから百姓なんだ。昔はそうたったんですが、それを全部農民だと思うから間違えるんだと。そのように言っています。

素直な私も「そのとおりに違いない!」と思います。

乙事の文化財の話からすっかり脱線してしまいました💦 
でも、こうして歴史を紐解くのって面白いですね。残された建物や聞きかじった話で想像してしまっていたけれど、それとはまったく違った人々の暮らしがあったようです。

宮崎さんのお話では、その後も江戸時代を通じて乙事村は稗の底村の税金を払い続けていたとの事。このあたりの話は、町史によるとかなり複雑ですが乙事は稗の底村が追うべき負担を負い続けて、田んぼに必要な水源を守り続けて大きな村へと発展していったようです。

 

再び、乙事の文化財ウォークへ

 

さて、話を乙事の文化財ウォークに戻しましょう。

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる

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乙事にはこうした自然の石を利用したものが多く残っているそうです。荒々しくって力強い感じがしますね。

 

乙事の文化財から人々の暮らしぶりに想いを馳せる

また、道祖神にはこうして盃を持っているものが多いとの事です。

 

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地蔵寺跡です。
県道17号線沿いですので、この道を車で走っている人は多いはずです。私たちの暮らしのとても身近なところに歴史の足跡を見ることができる。富士見町って本当に素敵なところです。

乙事の文化財ウォークから、宮崎駿さんの公演記録を読み直して稗之底村村の歴史を調べることになりました。すでに文化財ウォークから1か月ほど経っています。この間、ずっと頭の片隅で「なんでだろう?」と気になりながら過ごしていました。

謎が解けたわけではありませんが、宮崎さんがなさっているように事実をつなぎ合わせて妄想を膨らませるのはとても楽しい作業ですね。宮崎さんのお話は推理小説のようで心が弾みました。

まだまだ疑問は残っているのですが、ずっとドツボにはまっている感があるので、この辺で一区切りつけようと思います。

周りにはたくさんの「どうしてだろう?」があって、何かの機会に紐解く作業をしたら想像していた世界とは全く別のものが見えてくるかもしれません。

今回も又、先人たちの暮らしの延長上に今の私たちのくらしがあることを強く感じました。
今度は私たちはどんな未来を後世に残していけるのか?
意識して暮らしていきたいと思います。

(Written by エンジェル千代子)

 

ルバーブ生産組合や井戸尻応援団をはじめ、様々な団体で富士見町の活性化のために活動中