地域の方々か発掘と運営を担ってきた「井戸尻遺跡」
茅野市の土偶が国宝に指定され、最近では土偶にハマる「土偶女子」もお目見えしています。
ここ富士見町のお宝の一つ、井戸尻考古館にもすごい土偶や土器があるのを忘れないでくださいね!
井戸尻遺跡の魅力の一つは、何といっても「地域の皆さんが中心となり発掘が進められ運営されてきた」こと。
住民有志の会・井戸尻保存会が立ち上がり、昭和40年に運営が教育委員会に移管されるまで、会が中心となってその運営がなされました。
当時、若かった元館長の武藤雄六さんは、その中心的な小使い役(ご本人曰く)を負わされました。
平成25年、池袋の地区社協では地元の歴史を学ぼうと、武藤雄六さんの「考古館ができるまで」というお話しを伺う機会を設けました。当時の様子を伺い知ることのできる、楽しく貴重なお話でした。
その内容をご本人の了解を頂きここに掲載させていいただくことにしました。
生い立ち
その前に、雄六さんから伺った昔話を含め、武藤雄六さんの紹介をさせていただきます。
独学で学び、雄六さんの矢じりづくりや土器修復の技量は類を見ない高い技術だと言われています。地元の歴史にも精通されていますが、それはお住まいの池袋区の区誌の前後を手がけられた経緯によるのも大きかったようです。
雄六さんは昭和5年に池袋で生まれました。
雄六さんが境尋常小学校1年生の2月に学校が火災にあいました。その後再建されるまでの1年間、学年別に各集落に設けられた分教所に通うことになります。
それがきっかけになり、武藤さんはいじめにあうようになりました。学校の行き帰りにいじめから逃れるために、みんなとは別に茂みに隠れるように沢に下りて、登下校するようになります。毎日、ひとりで沢を眺めているうちに、水の中に赤く光るきれいな石を見つけました。
それが、その後長年付き合うことになる、雄六さんと六角石との出会いでした。その魅力にとりつかれ、雄六さんは石集めを始めます。中学生ごろになると、噂を聞きつけた標本業者が買い付けに来ることもあったそうです。
尋常小学校を卒業後、同じ敷地内にあった高等科に進みます。戦時中の昭和20年・高等科2年生の時には下諏訪の木工所の寮に入り、男子生徒は毎日、木にベニヤ張りの飛行機を作っていたそうです。飛行場に見せかけの飛行機を並べ敵を欺いていたそうです。話には聞いていましたが、こんなところでも作られていたんですね。同じように、女学生たちは製糸工場で働いていました。
3年生になると体格もよく優秀な学生は志願兵となっていき、その他の生徒たちは満蒙開拓団青少年義勇軍に入るように言われました。しかし、雄六さんは長男と言うこともありお父さんの強い要望で富士見の農学校に進みます。
それから先の話は、雄六さんの話と続きます。
井戸尻考古館ができるまで
2013年11月16日開催 池袋地区社協ふれあい会 での講演会より
どういうきっかけでこういうことになったかということについて、まず最初に説明をしたいと思います。自分の事で申し訳ありませんが、ことのはじまりは、戦後まもない昭和23年まで遡ります。
昭和23年はどういう年かといいますと、高校がそれまで旧制だったのが新制の高校になった年です。今の富士見高校の前身は諏訪農学校という学校でした。諏訪農学校の3年の終わりになると、4月から新しい高校になるということで、「希望者は教頭まで申し出ろ。」という話でしたので、行ったところ「武藤、お前はだめだ。」と拒否されました。何でかといいますと、ちょうど20人くらい新しい高校を希望していましたが、その皆さんに迷惑になるからお前はだめだと拒否されました。従って旧制のまま、諏訪農学校だけをどうにか卒業できるという状態でした。
なぜかというと、昭和20年終戦の年の4月に入学して、昭和23年に3年で農学校卒業ということになったのですが、その間、農学校には非常に優秀な先生が多くおりました。なぜかといいますと、結核(昔は肺病と言っていました)になって今の高原病院へ治療に来て、ある程度よくなった人たちが農学校の先生としてかなり来ていました。で、たまたま自分は知らなかったが「あいつは先生にひいきをもらっている。おかしい。」と言われたくらいで、諏訪市出身の先生にまあかなり可愛いがられていたので、ひいきなどなかったはずですが、傍からみるとそう見えたかも知れませんが・・
ところで、その頃、どうも体の調子が悪く、高原病院に行くのは嫌だから、諏訪の日赤に行って見てもらったら、結核のはじめだと言われました。高校に行けなくてよかったのでしょうが、ぶらぶらしながら医者の言うことを聞いて静養していたのだから、今思うと両親や祖母には申し訳なく思います。
うちの親父は武藤市郎といいましたが、「市郎さん家(え)の小僧はまあなんたって“のもく野郎だ”。」と言われました。 のもくというのは、仕事をしないでぶらぶらしていることを言いますが、「ありゃあ、のもく野郎だ。」と言われても、本人は、「百姓仕事なんてするといけない。」「ぶらぶらしていろ。」ということなので、医者の言うことを聞いてぶらぶらしていたわけです。のもく野郎ということで、のもくついでに、それまでずっと石が好きで、公民館前の沢で六角石(角閃石という石が出ることで日本的にも有名な産地。今は少なくなりました。)を拾っていたわけです。また、池袋の近所の畑には黒曜石で作った矢じりがかなり落ちていたので、ついでに六角石と矢じりを一緒に拾って歩いていました。従って「市郎さん家の小僧はひとの家の畑を歩きやがって。」とせいせい言われたようです。何を言われても、仕事をしちゃいけないと言われていたので、そんなことをしながら日を送っていたわけでした。
そんなある時、葛窪の親戚の家に諏訪史第1巻という厚い本があり、その本を見ていたところ、池袋にも遺跡があって、誰と誰と誰が収集した物を持っているという記載がありました。その話に惹かれ、池袋は集めてしまったので、どこかよそへ遠征することとなったわけです。
復元した土器を示しながら
どこへ行ったかというと、一寸遠い隣の烏帽子の集落へ行くことにしました。たまたま線路を渡って小六の方へ向かう急な坂道、今はかなり広い舗装道路になっていますが、当時は砂利も敷いてない土の道でかなり傾斜が強かったその坂道を矢じりでも落ちていないかと思いながら前こごみで歩いていたところが、道路の傾斜と同じ形状に壊れていた土器の端の部分にけつまづいて転んでしまったのです。(土器を示しながら)
隣が桑畑だったので、くわんぼう(桑の棒)をこういうように使って掘り出した。「この野郎しょうねえもんだ。俺を転がしやがって。」ということで、だんだんだんだん掘っていったら、こういう形になっていた。
よそのうちの畑で拾っている時代には、こういう細かいかけらは矢じりと一緒に拾っていましたが、格好になったのは初めて。これが初めて自分の手で掘り出した土器になります。ひびが入って壊れた所だけつないで、補修は全然していない。考古館に展示するわけにもいかないので、収蔵庫に保管してあるものを今日は借りて来ました。これが武藤(私)の最初に掘った土器です。考古館の別棟収蔵庫にケースに入れて保管してあります。これが昭和23年のことです。
年が明けて24年になって、味をしめて、またあるかもしれないということで、同じ場所にでかけて行きました。ところが、道路にはもうない。この土器を掘った道路には多少残っている程度でしたが、坂を上りきった所の左側、元は芝生だったが地主が畑にするために芝を掘り起こした所に、がらがらと土器が出ていた。びっくりしましたねえ。これ1つだって儲けたつもりだったが、がらがらと出ていたので、何とかこれを自分のものにしようという気が起きて、近所の人に地主は誰だか聞きました。
ちょうどその家は烏帽子で同じ学年の女子がいて、その家の土地だとわかりました。その家へ行って「あのがらがらしているものをくれないか。」と聞いたら、「あんな物はいらないから早く持っていけ。家で畑にするのにじゃまだから早く持っていけ。」と念を押されました。そこで、三つ年上の先輩を誘って桑びくとびくを2つ持っていって入れたけれど、半分も入らない。家へ帰って桑びくをもう1つ持って行った。とても背負うなんていう目方ではなかったので、親父がちょうどいなかったのを幸いに、農車をひっかけて行って、全部家へつけてきました。何でそんなことをしたかというと、当時は文化財保護法という法律がなかった。文化財保護法は昭和25年にできたので、かろうじて文化財保護法は免れたわけです。
さて、これをどうすればいいか全然わからない。2~3年くらいだったと思うが、そのまま薪小屋の中に積んでおいたんです。
何とかあれを形にしたいと思って、信濃境の駅前に今はありませんが進藤薬局というのがあって、そこの進藤篤さんに「こういうものを拾ってあるけれど、つなぐことはできないか。」と相談しました。今は忘れてしまったが、難しい名前の2つの酸を用意するから、それにセルロイドを切って入れると、セルロイドが融けて接着剤の役目を多分するからやってみろということで、2種類の酸を分けてくれました。ただくれたわけじゃないぞ。それをもらって、最初は使ったセルロイドがいろいろだったもので、いろいろな色があった。ちゃんとしている分にはいいが、外にこぼれた部分にはいろいろな色があったわけです。
昭和28年。だいぶ病気がよくなってきたところで、村の青年会の会長をやれと言われてしまって、会長なんてできるはずはないので断ったけれど、何たってだめで、仕様がないから皆さんに助けてもらってどうにかやったわけです。
それが終わって、29年になったら、今の農協の店のある所に境村の農協があって、そこに就職しろというので就職することにしました。どんな仕事かというと精米や精粉の仕事でした。最初のうちは大したこともなく過ぎたわけです。
話変わって、高森の切掛川の西側に新道という高森の開拓があり、そこに小林武さんという人がいて、その地籍で諏訪市の在野の考古学者の藤森栄一さんという人が発掘をしました。この新道遺跡からは可成りいい土器がセットで出て来ました。セットというのは、一軒の家で使っていた物を煮る道具など一式です。
そうこうしているうちに昭和31年になって、その藤森栄一先生が高森の人たちと知り合いになり、会をつくろうということで境史学会というのをつくることになったわけです。
その中に小林正嘉という人がおりました。この人は境小2年の時の担任の先生です。その先生曰く「武藤はいつも110点を取った立派な成績の持ち主だから、仲間に入れるじゃないか。」ということで、皆さんお年寄りですが、一人だけ若い小僧が仲間に入れてもらったわけです。110点というのはわかりますか。皆さん110点を取ったことがありますか。誰もないと思います。110点というのは0点のことです。昔は0を書いて下に2本線を引いた。横に見ると110。いつも110点をもらっていた。だから、その先生は「まあ、あの小僧も110点ばかり取ってバカだったけれど、何とか引き上げてやろうじゃないか。」ということで、元助役さんも地主もいる中に入れてもらったわけです。だから、110点をくれた先生の肝いりだったので、史学会をつくらせた藤森栄一先生は「そんなバカを入れてもだめだからよせ。」というのが普通です。
しかし、たまたまこの人は諏訪市の博信堂という書店のおやじさんだった。石(六角石)を勉強するには石の本が必要で、石の本を買いに行ったのですが、物もいわない変な小僧がいるなと藤森先生は思っていたらしいです。正嘉先生が入れようと言った時、反対もしないでどうにか入れてもらったのが不思議なくらいです。
土器も進藤篤先生のおかげで何とか格好にはなった。ただ、それから後、穴をどうすればいいか聞いたら、石膏というものがあるからそれで埋めればいいじゃないかと教えてもらったのですが、誰もこの界隈で石膏を使って穴を埋めるということをした人がいないもんで、誰も教えてくれる人がない。見よう見まねでやったのですが、ぼこぼこといっぱい着いて汚かったわけです。最初に復元した土器は見られたもんじゃなかった。後で全部取ってやり直しました。
農協に入って少し経って、昭和31年の史学会の時、藤森先生が来て、公民館主催で講演会が催されました。先生は「信濃境界隈はものすごい縄文の遺跡があるはずだから、「発掘しろ発掘しろ。」と盛んにあおり立てたわけです。なかなかそういう気にはなれないでいました。
今の信濃境の運動広場になっている所に、稚蚕飼育所を兼ねた公民館があった。当時の公民館の館長だった葛窪の平出勝一さんが「お前、土器を持っているそうじゃねえか。土器を出せ。」と言ってきた。「だめだ。」と言ったら、「入れ物を作ってやるから土器を出せ。」ということで、「入れ物を作ってくれるんじゃあいいなあ。」と思ったけれど、まさか本当に作ってくれるとは思わなかった。ところが、公民館長さんは本当に入れ物を作ってくれた。もう出さないわけにはいかなくて、集めた物を全部差し出しました。
昭和32年に藤森先生が、「どんどん掘れ掘れ掘れ掘れ。」と言うので、掘るじゃあないかということになって、「一番若い小僧のお前が、掘る所を見つけろ。」ということになったわけです。だけど、家の畑を掘ってもいいという人はなかなかいない。ところが、一緒に農協にいた、今消防団長(平成26年度)をやっている功刀芳朗さんの親父さんの功刀良雄さんという人がいて「お前困るじゃあ、家の畑掘れやあ。」と言ってくれました。その場所は今の井戸尻遺跡の復元家屋が建っている所。畑の作物がない時期に掘らなきゃあいけなかったので、いよいよ昭和33年3月に掘ることになったわけです。
いよいよ掘る段になったら、当の「掘れ掘れ。」と言った藤森先生がマラリアか何かで寝込んでしまった。昭和25年に文化財保護法ができて、発掘する場合はその道に長けた担当者がいなければということがありまして、先生に「尖石に行って頼んでこい。俺はだめだから、尖石に行って頼んでこい。」と再三言われました。「どうやって行きゃあいい。」「ああ、これだけ持って行け。」(2本指を出す) 何のことだかわからない。いろいろ考えて、「ああ。何だこれは酒を2本持って行けばいいんだ。」とようやく気がついた。酒を農協から買って尖石へ行ったものです。あの先生(藤森先生)曰く「持って行ったからよかった。持って行かなきゃだめだ。」と。「じゃあやるか。」ということに決まって、昭和33年に発掘したんです。
昭和33年の井戸尻遺跡の発掘は功刀良雄さんが理解してくれたのでよかったのですが、発掘は最初に尖石流で苦労しました。尖石流というのは、幅50㎝くらいの溝を掘ります。ずっと溝を掘ると、竪穴住居のある所は黒土がそこだけ深くなっているからわかる。まず溝を掘って、ここを掘れということで堀ったわけですが、すでに、畑を耕している最中にそこから土器がいっぱい出たらしく、処分しちゃったということで、1号はだめ。2番目にそこから10m離れた東側を掘ったところが、住居趾や土器が出てきた。住居跡を掘るのは初めてだったので、宮坂先生に「この発掘の記録は全部お前が書いておきなさい。写真も撮っておきなさい。」と言われた。昭和33年の区長は武藤盈さんだったので、盈さんの所に行って、写真を撮ってくれと頼んだ。あともう1つは、発掘した所を測量しなさいということだった。測量なんてやったことがないので困って、土地の測量をする平出武助さんと高平さんに、道具もないもんで仕様がないから頼んだ。発掘人夫は、史学会のメンバーの3〜4人と、池袋の年寄り島田真太郎さんとか小林伯平さん進藤由太郎さんなどだった。お年寄りだけで、若い人は発掘なんていう苦労はしたくなかった。それじゃあ、土を掘ったり運んだりするのに困るから、清陵高校の生徒を宮坂先生が頼んでくれた。それで発掘をしたわけです。
2番目に掘った住居趾は、本当はそれを井戸尻式にすればよかったのですが、当時流にいうと「まっといい土器」が出た住居趾に当たったから、別に貉沢式(むじなざわしき)にしたのですが、炉址に土器が据えてあり、あと2、3点その近くに据えてありました。その南側にそれよりまだ深い家の跡が見つかった。それを掘ったら土器がいっぱい出てきた。宮坂先生が「これくらい掘りゃあいいだろうらい。」というので、一応終わりになったのですが、困ったことが1つ起きました。
清陵の生徒が日曜日にこれで終わりと言ってから、掘っちゃったのだ。困ったことに前よりずっといい土器がいっぱい出てきちゃった。仕様がないから宮坂先生のところに行ったら、でっかいもんに怒られた。「担当者に無断で掘るとは何事だ。」ということで、でかく怒られた。仕様がないからぺこぺこ頭を下げて謝って、何とか堪忍してもらった。
最初の発掘は4軒で終わり。ところが、最後に清陵が掘った4号の家の下にはまだあるのがわかっていたが、宮坂先生は頭にきちゃってそれ以上は掘らせない。多分先生は危機感を感じたと思う。「こんな調子で掘られるとうち(茅野市の尖石)の方が負けるかもしれない。」 今先生が亡くなったから言えるけれども、危機を感じただろうと思います。「絶対だめだ。その下を掘るのはまかりならん。」ということで、一応収まったわけです。
出土した土器や井戸尻遺跡の詳細は、井戸尻考古館に展示されている
井戸尻遺跡というのは後から有名になるだけあって、非常におもしろい遺跡で、どんな土器が出たか記録しておきなさいと言われた。記録しておきなさいと言われたって、これが最初の発掘で、やったことがない。土器の形式なんて全然知らない。困ったことに井戸尻遺跡は縄文時代の早期から前、中、後、晩期、そのほかに平安時代の住居趾があるから、それ相応の土器もあるので、今はすぐ分けられるが、当時は全然できない。かけらはみんな同じに見える。先生に「これは?」「これは?」と聞いても、「自分で勉強しなさい。」と言われる。勉強しろったってどう勉強するかわからない。上諏訪の藤森先生のところへ行って聞いたら、先生は寝込んでいてだめ。今までの人生の中で一番困ったのはその時です。1つの時期のものならいいです。これは縁の部分、胴体の部分とその部分で分けられる。時期が違うと形も違うし、付けられている模様も全然違う。厚みも違う。これをど素人の全然知らないのが、時期別にどんな土器が出たか記録しなさいと言われて、こりゃあ困ったわなあ。それから、土器1点1点みんな手で触って感触を覚えたりした。本を藤森先生から借りてきて、見比べたりした。今はぱっぱっと分けられるようになったけど、昭和33年には全然分からなかった。何でこんなことしちゃったかなあ、これなら石をやっていた方がまだいいやと思っても後の祭り。足をつっこんだら引くわけにいかない。「まず、土器を洗いなさい。」ということで洗って、清陵の生徒も一緒になって組み立てをして、そこまではよかった。穴が開いている所を埋める技術は実にへぼくて、どうしようもない。だけれども、全然壊れていない土器もかなりあった。多分宮坂先生は「ことによると危ないかもしれない。」と感じただろうと思います。その年に、宮坂先生が「こりゃあいい遺跡だから何とかしなきゃあ。」「保存会なるものをつくりなさい。尖石でやっているから。」と教えてくれて、井戸尻遺跡保存会というのがその年にできました。そのことは、保存会の記録があります。
境ばかり掘っていてもおもしろくない。烏帽子も掘るじゃないかと 昭和34年に掘ることになりました。掘ったのは、宮坂先生の堀った場所の北方で住居址、3軒などでが出ました。
昭和35年になったら現在の曾利、考古館の建っている所の前、地主は誰だったかな、藤陽さんと憲治さんに頭を下げてお願いして、昭和35年に掘れることになりました。ところが、掘り始めたら山みたいなものが出てきた。なんだ変なものだなあと思って全部堀り上げたら、今考古館に展示してある土器が出てきた。藤森先生はそれまでマラリアで寝ていたのに、起き上がって、さあいけないわな、「今すぐ復元しろ。」とこうきた。復元しろったって簡単にできない。ところが、「これを復元して、出てきた所に並べて、写真を撮らなきゃいい報告書はできない。」ということで、仕様なしに、掘るよりそちらが先になってしまった。
ところがその時台風が来て、考古館より上に進藤徳松さんの田んぼがあって、土手の石垣がくん(崩れて)で変なものが出ているぞということで、見に行ったら、丸っこいものが田んぼの中いっぱいに出ていた。先生に見せたら「ああこれは耳飾りだ。」「こっちは後回しにして、そっちが先。」ということで、大花の遺跡を掘るようになった。耳飾りはその後、大花からかなり出まして、大変な数になっています。
そうなるとぼちぼち入れる所がなくて困る。合併した役場の事務所が広すぎるからということで、真ん中にしきりをして、信濃境の公民館になっている下の段にしきりをして、支所は手前、後ろは考古館ということにしてもらって、そこに初めて井戸尻考古館ができたわけです。仕事をする場所は2階の西側の2部屋を使わせてもらって、そこで復元したりしたわけです。
当時昭和39年まで農協にいたわけですが、よく農協の役員さま、同僚の皆さんが発掘や土器の復元をやらせてくれたもんだと今もって感謝しています。朝、普通より早く出かけて行って、なんぼか復元をやって、ちょろっと弁当をかき込んでやって、仕事を終わると、夜だいたい2時から3時頃まで復元作業をやってというような生活が何年かありました。
その後、昭和37年1月、長野県の考古学会の第1回の大会が信濃境のこの考古館で行われ、盛況でした。
昭和40年6月、考古館の運営が教育委員会に移管になりました。それまでは保存会が主体でやっていたわけです。
昭和44年になって、初めて収蔵庫、今考えてみるともっと大きければよかったと思うけれど、収蔵庫が現在の位置にできました。勿論、遺跡地の上でしたので先に発掘したのですが、この時は保存会が主体で高校生を含めて可成りに当時としては大規模なものでした。収蔵庫は町で造ってくれた。どういう考えで造ったかといいますと、半2階で、下で展示をして上は収蔵庫ということで半2階の建物ができた。町はこれで終わりという考えだったようです。ところが、どんどんどんどん収蔵物が増えてどうしようもなくなった。その時だってけっこう観覧者は多くて、バスもかなり来ていたわけです。どうも困るというわけで、昭和49年になり、県の企業局が行っている事業の還元施設の一部ということで、今の考古館ができたわけです。これについては、広原管理委員長の乙事の三井武男という人が非常にいい人で、随分がんばってくれて、「5000万円出す。5000万で造り町へ寄付する。」という、ことになった。今考えると、5000万じゃあ収蔵庫もできない金額ですが。新考古館の建設に当たっては、収蔵庫の時と同じで、事前に発掘調査を行いました。この発掘は、可成りに大規模なもので廃土の仕事が大変でした。ベルトコンベアーを使い、他所へ運び出しました。発掘の結果は、報告書「曽利」に詳しく掲載してあるので参考にしてください。
建設を受けたのは、農協の専務のお姉さんが岡谷にお嫁に行った先の小沢建設というところだった。ところが49年は第1回の石油ショックの時だった。だから、かなりいい加減な仕事をするじゃないかと思われていたわけですが、最近になって耐震検査をしても合格。悪い所は全然ない。せいぜい展示場の吊り天井がことによれば何かあった時危ないかもしれないという程度でした。多分、小沢建設はかなり損をしていただろうと思います。専務の姉さんは俺の親父のいとこ。あの小僧がいる所だから我慢しろということで、多分がんばってくれたのだろうと今考えると感謝の気持ちで一杯です。
その間にもう1つ絶対忘れてはいけない事件がありました。それまで、出た土器をサントリー美術館に貸し出しをしていたんです。サントリーでは考古館一帯を買収して、発掘して出た物をみんな東京に持って行く。今白州にある施設をここに建てるというもくろみだったようです。そこを何とかがんばって、現状にとどめた。俺が一番小僧だったから先輩ががんばってくれて、村の衆もがんばってサントリーに乗っ取られる事件だけは免れたわけです。あの時負けるとサントリーが親分で、サントリー詣でをしなけりゃいけないことになったかもしれません。
その後、井戸尻遺跡を史跡に指定するということが持ち上がって、地主の皆さんにはかなり迷惑をかけたわけです。最初に発掘した土地を含めた畑の部分だけということだったのですが、その後、その下3枚の田んぼを含め、史跡へ、井戸尻遺跡として指定になったわけです。
ところで他所を見ても、考古館だけでは経営がうまくいかない。何千年も前と今とでは生活様式も全然違うから、中間の施設を設けるといいんじゃないかということで、民俗資料館ができたわけです。これは町の費用で1億2千万円でした。時の町長三井春富さんがちょうど間仕切りをする前に来て、曰く「何だ。こんなでっかい物を建てやがって。」とでかく怒られた。後で間仕切りをしてみると「でかいもんだ。」なんて言わなかった。今になってみると、現状を見たことがあると思いますが、会議をする場所もない。下の展示場はいいとしても、2階は民俗資料がいっぱいで、そこらじゅう、機屋や箪笥などいろいろで、どうしようもないくらいになっています。
民俗資料館を建てて展示をするまでが武藤(私)がいた時にやった仕事です。
それから後、遺跡は尾根の高い部分にあって、低い部分は低湿地になっていますが、そこの買収を含め、史跡を広げた段階は小林公明館長がやった範囲になります。
今は、蓮は分けてもらった方がよくなって、分けた方が見栄えがしなくなっている。とか。新しい方が結果がいい。分けてもらった方がよくなって、元がみすぼらしくなっている。分けることはやめた方がいいと思います。何とかするには、客土をするとか、有機質の肥料を追加してやる、そんなことくらいしかよくする方法はないんじゃないかと思われる。
井戸尻考古館のメーンはなんたって縄文農耕だから、蓮もいいですが、縄文農耕で売り出しているので、そういう方向に力を入れていくべきではないか。なんて言うと公明さん(前館長)に怒られるかもしれない。農産物の水生のもの以外は乾燥している土地の方がいいです。乾燥している土地は農産物を作るようにして、湿地は現状でいいですが、何とか回復させる手段を研究していかなければいけないんじゃないかとも思います。
ですが、大舅があまり口を出すと若い衆が気に入らないと思いますので、どこの家庭でもそうだと思いますが、あまり口を出してはいけないのでほどほどにしておきます。
以下、追記
ところで、この話は万が一にも収録されて更に活字になるとは思っていなかったので、最も新しい事でも四半世紀以上も経過しており、不明確な点は、平にお許し願いたい。
また、もう一つ、町で茅野市とはいかなくても、日本一の資料を持っている考古館と資料館・史跡ともども、協力していただいた地主各位の願いを含めて、本気で将来の姿を考えてもらいたいと願っている。
関連情報
井戸尻考古館
井戸尻考古館は、八ケ岳山麓を舞台に繁栄した縄文時代の生活文化を復元して、当時の生活様式を紹介する施設です。また、井戸尻考古館がある井戸尻史跡公園は、古代ハスをはじめとする花の名所としても知られており、多くの観光客が訪れます。
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縄文人の生活再現